菅名 礼留氏「大人の色水あそび」


2007.7月

「大人の色水あそび第2-2」

CELSEA(チェルシー)

  • Earl Grey liqueur 30ml
  • Black tea leaves (Earl Grey) 1tsp
    or tea extract
  • British gin 30ml
  • Mint leaves 2〜3leaves

Pour Earl Grey liqueur and gin into a glass and add black tea leaves or tea extract.
Mix well with crushed ice.
Garnish with mint leaves and serve.
お茶はお好きですか?

このさわやかな飲み物に人はいつごろから親しんできたのでしょうか。
茶の木(Camelia theifera, Thea sinenesis L.)は、ツバキ科の常緑の低木で原産は中国南西部からインドシナ北部、中国では紀元前から茶を楽しんでいたとされていますが、実際に喫茶の習慣が盛んになったのは唐代だったようで、茶道の開祖といわれている陸羽(733 - 804)というひとが「茶経」(780)をあらわしたのもこの頃のようです。当時はお茶の葉を蒸して臼でついて団子状にしたもので、これを塩や香料とともに煮るというものでしたが、宋代になって粉茶(抹茶)が用いられるようになり、明代には淹茶(煎茶)へと習慣もかわってきます。日本へお茶が渡ったのは奈良時代にはじまり、伝経大師や弘法大師の中国留学による栽培もあったらしいのですが、鎌倉時代の戦乱で一旦は廃れてしまったそうです。
宋のお茶はかの栄西(1141? - 1215)が同様に中学留学から種子を持ち帰り、ここ博多と脊振山麓に植え、これが京都の宇治に伝わったのが始まりということです。その後、この粉茶の習慣が茶の湯に大成されていく過程は諸兄もよくご存じのことでしょうから、敢えて申しません。
このお茶を西洋人がほうっておくはずもなく、17世紀には、日本と中国からヨーロッパに輸入されるようになります。1684年には、当時貴重な外貨獲得源であるために禁輸になっていたお茶の種子を中国から命からがら盗み出すことに成功する御仁まで現れます。実際にはこの中国外での栽培の試みは失敗に終わり、現在の紅茶のもととなるお茶は、19世紀にインドはアッサム高原に自生するアッサム種(Thea assamica)の発見が発端となって、これがジャワやセイロンにひろまったことに由来します。紅茶は緑茶とちがって、収穫後十分に茶葉の中の酵素のちからで褐色に変化させるもので、南方航路の船倉で腐ったのが始まりではないそうです。したがって、紅茶の葉の中には人気のビタミンC(ascorbic acid)は消えてなくなっています。煎茶には大量に含まれているのですが、抽出されにくいらしく、やはり抹茶が最高の摂取方法のようです。最近、緑茶をたくさん飲む人は胃癌になりにくいという疫学の研究結果が議論されています。
さて、18世紀初頭のロンドンでは、それまで主流であったコーヒー店がすべて喫茶店となって、文士のつどう場所となったようです。英国初の英語辞典編纂で知られるかのジョンソン(Johnson, Samuel, 1709 - 1784)は、自分のことを「因業で恥知らずのお茶飲み」と言っているそうですから、当時英国の知識階級にとって、お茶はすでになくてはならないものになっていたようですね。実際、英国人はお茶を飲みます(もっとも、最近はコーヒー・ブームなのだそうですが)。毎食後はもちろんのこと、午前は10時、午後は3時にお茶の時間があります。在英中は、この時間になると職場からひとが消えるので、最初は面喰らったものです。正式な午後のお茶には、ケーキやサンドイッチなどの茶菓もふんだんに出ます。ひやかし半分に入ってみたMayfairの古いホテルのティー・ルームでも、その量と慇懃なサービスには閉口したことを憶えています。ロンドンの街中、医師、弁護士の好んで住むこのMayfair、あるいは研究者や法曹関係者の多いBloomsburyからHolborn、お金持ちと文士の町Chelseaあたりでは、今日も茶器の触れあう音が響き、紅茶の香りが立ち昇っていることでしょう。
Chelseaと言えば、ブルー・ブラーク(著名人の旧家を示す標識)のホットスポットで、古くはトマス・モア(More, Thomas, 1478 - 1538)やフランシス・ベーコン(Bacon, Francis, 1561 - 1626)、下ってカーライル(Carlyle, Thomas, 1795 - 1881)、ジョージ・エリオット(Evans, Mary Ann, 1819 - 1880)、オスカー・ワイルド(Wilde, Oscar Fingal O' Flahery Wills, 1854 - 1900)、最近ではアガサ・クリスティー(Miller, Agatha Mary Clarissa, 1890 - 1976)が住んだ街として有名です。なかでも、カーライルはChelseaの哲人(sage)と恐れられた天下の御意見番でした。当時は産業革命として知られる工業化が進み、人々の生活を日々激変させていた時代。物質文明が人間をいかに堕落させるかを、Chelseaにこもり、ひとりやかましいく批判していたのがカーライルです。警世の叫びというと、もうひとりのChelseaのThomas,モアも忘れられません。彼の筆になるあの「ユートピア("Utopia", 1516)」(ギリシャ語の_(not)と_∏_(place)からモアが造語)は、今日の我々が盲目的に引用するようなお気楽な理想郷でもなく、一部の人たちがいうような、まったくお話にならない非人間的管理社会でもありません。かのエラスムス(Erasmus, Desiderius, 1467? - 1536)は実はモアの友人で、「痴愚神礼賛("Moriae Encomium", 1509)」を書き上げたのも、ロンドンのモア亭に居候したときのことだそうです(題名のmoriaは「狂気」のこと。博学聡明なMoreを茶化したエラスムスのウィットといわれています)。人間の社会は、つねに一貫してこの「痴愚神」が支配してきました。奇しくも、このふたりのThomasの時代に「救貧法(Poor law, 1536)」が成立しています。英国初の救貧法と「新救貧法(New poor law, 1834)」です。大量の貧困層が生み出された理由は、「囲い込み(Enclosure)」と産業革命と、異にはしているものの、施策の実態が貧民の事実上の迫害にほかならなかったという事実は、この良識ある知識人たちを大いに刺激したことは言うまでもありません。この19世紀イギリスの労働階級の惨状が共産主義運動を生み、ユートピアの共産制はその出発点になりました。でも、あまりほんとうのことを言い続けるのは危険ですね。カトリックの信仰を守り通すために、国王の再婚に反対しつづけたモアには、斬首の刑が待っていましたし、いつまでも口を閉じないカーライルには世間の無視が待っていました。
えっ、こんなお話はお茶にそぐわないって? いえいえ、こういうお話こそお茶を啜るにはもってこいなのです。第一お茶は、岡倉天心(岡倉堂三, 1863 - 1913)がかの「茶の本("The book of tea", 1906)」にいわく、道教の教えを父とし、禅を母にして育った文化なのですから。彼はまた言います、「茶には酒のような傲慢なところもない」と。

してみると、わざわざ茶に酒を混ぜずるは愚の骨頂でしょうか?